So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン
-| 2018年05月 |2018年06月 ブログトップ

争わない自分、争わない社会は食から生まれる〜真の平和のために〜 [健康と幸せ]

ヴィーガンズブレックファースト20180531DSC_0267.JPG
ヴィーガンズ ブレックファースト  きょうはヴィーガン マヨネーズを作ってみました。
無調整豆乳150g、米油100g、木綿豆腐適量、白味噌大さじ3,アップルビネガーおおさじ2,甜菜糖大さじ1、塩はお好みで小さじ1


いま日常で誰とも争っていないだろうか、考えていただきたいと思います。
家庭で、職場で、友人知人と、親戚と、あるいは隣人たちと・・

争う気持ちはなぜ起きるのでしょうか・・
私は一つの仮説を立ててみました。

もちろん私自身の体験を経ての仮説です。
私自身は検証済みですが、もしどなたかが検証つまり体験をされたならば、是非その結果を聞かせていただければ幸いです。

私は争いの原因は食にもあると考えています。
もちろん食以外にも原因はあるに違いないのですが・・。

私は争いを起こす原因が食にあることは間違いないと思っています。
争う気持ちが起きるのは、争う気持ちを誘発する食という原因を作っているからであると考えています。

わずか100年前まで、奴隷制度がありました。
否、今でも世界のどこかでは人身売買が行われているのだと思います。

これらは人間同士が優劣をつけ、人を家畜同然に扱ってきたものです。
日本でも切り捨て御免や敵討ちなど、人の殺生を容認してきた歴史があります。

日本は仏教国であり、能や狂言では霊を扱った作品は多いです。
しかしそのほとんどは、幽霊という程度の霊であり、本来の生命エネルギーという高尚な見方はされてきませんでした。

つまり、今までの生命の見方というのは、そのほとんどが肉体的な視点でみており、霊的な視点で見てこなかったということです。
私は肉体的、物質的な視点ではなく、いま霊的な視点で記しています。

先進国ではようやく人が人を殺生しなくなってきました。
殺生すれば、それは法的に処罰されて罪になります。

しかし、これは人間に対してのことであり、同じ生命である動物に対してはなんの規制もありません。
果たして動物は殺生されて、食べられるために生きているのでしょうか。

私は、それは非常に地上的な、肉体的な、物質的な視点での見方である、と考えています。
霊的な視点で見た場合、霊に貴賤があるはずはなく、霊に上下はないのです。

なぜならば彼らも生命としての霊は全く同質の霊であり、寿命を全うして進化するために地上に生まれてきたからです。
違いは進化の程度の差だけであり、本来は進化の進んでいるものが進化の遅れているものを保護してあげなければならないはずです。

殺生されて喜んでいる生き物がいるでしょうか、よく考えていただきたいものです。
どんな生き物でも捕まえようとすれば逃げます。
殺生されれば、そこで血を流し、痛みを感じ、怒りや恨みの念が生じても不思議ではありません。

牛や鶏や魚介類にはそんな思念や感情はないとどうして言い切れるのでしょうか。
ただ霊として人間ほどまだ進化をしていないに過ぎません。

私たちが彼らを食している限り、自分の中から怒りや恨みが消えることはない、と私は考えています。
これは個人の問題でもありますが、家庭の問題でもあり、国家の問題でもあるのです。

もし家族と言い争いが絶えないとしたら、その原因が食にあるかもしれないと疑って見ることです。
もし生命の大切さに気づいて、彼らを食さなくなれば、自分が争わなくなったことに気がつく時がくるに違いありません。

家族たちは争っているのに、自分だけは争わなくなっている、そう自覚できる日がきっと来ます。
やがて家族たちも、そのことに気づく日がやって来るはずです。

一人一人の人がそのことに気づいて彼らを食さなくなることにより、その先に見えてくるのが真の平和ではないか、そう私は思っています。
それは自分自身の平和であり、家族の平和であり、国の平和であり、そして世界の平和につながっていくに違いありません。

最後にシルバーバーチの言葉を記します。

「残念でならないのは、クリスマスに先立って大量の動物が殺害されることです。物言わぬ神の子が無益な犠牲とされていることです。平和の君キリストの誕生がそうした恐ろしい虐殺によって祝われるというのはなんと悲しいことでしょう。なぜ平和を祝うために罪も無い動物の血が流されなければならないのでしょうか。これはまさに地上世界のはりつけです。罪なき動物に流血の犠牲を強いて祝うとは・・・。

いつの日か愛と哀れみと慈悲と責任感とが人間を動かし、助けを求める動物たちへの態度を改めることになるでしょう。そうした資質が発揮されるようになってはじめて、罪も無い動物への容赦ない流血と残酷と無益な実験もおこなわれなくなることでしょう。地上に真実の平和が訪れ、オオカミが子羊と並んで寝そべることになりましょう」
(潮文社「シルバーバーチの霊訓」 第11巻 162~163ページ)

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

生命と霊と魂と身体 ② [生命と霊と魂]

ヴィーガンバター130gDSC_0261.JPG
少しサクサク感のあるヴィーガンバターです。ココナッツオイル130g、無調整豆乳100g、調製豆乳30g、塩3gとアップルビネガー5gはお好みで加減して下さい。よく撹拌するのがコツです。


さて、魂は言葉です。用語です。
私は、魂とは宇宙に存在する生命である霊の分霊のある部分が、自我を持ってこの地上に誕生したもの、と定義します。


自我とは自分であるという意識、つまり意識と意志という精神を持っていることです。
なんのために魂として地上に誕生したかというと、分霊としての霊がより進化するためです。

霊が進化するためには、魂である自分が成長、向上することが不可欠なのです。
この成長、向上のことを霊性の向上と言っています。

魂は霊性を向上させるために、様々な体験をします。
楽しいことや嬉しいこともありますが、それらは魂の向上には役に立ちません。

魂の向上には、苦しい、辛い、悲しい、危機的な・・そういう苦難が是非とも必要なのです。
これはどんなに霊性が向上していても必要なことなのです。

鉄は燃えて、打たれて強いハガネになっていきます。
魂も同じです。

燃えて、打たれて、ようやく魂が目覚めるのです。
魂が目覚めなければ、人間は生命であるということを得心することは出来ません。

魂が目覚める為には、日常で自分の目の前に置かれたことに最善を尽くして生きるようにするしかありません。
日常から逃げて、楽しいことばかりを追っていては、魂はいつまでたっても目覚めません。
魂の目覚めのことを、魂が琴線に触れる、と言います。
まるで電気にでも打たれるように、忽然と開眼するようなイメージです。

魂の目覚めは、人間には地上で成就できるように誰にも用意されています。
それが功を奏しないのは、今の人達があまりにもモノや金銭に頼っているからです。

自分の目の前に置かれたことから逃げないで、自ら最善を尽くすこと以外に魂が目覚める方法はありません。
他力ではなく自力で困難、障害を突破、克服することが重要なのです。

チャレンジして、たとえ失敗しても問題ありません。
今の世の中は、チャレンジしないでそこから逃げ出す人が多いのです。
だからいつまでたっても魂が琴線に触れることがありません。

魂が目覚めれば、自分の本質・本体は肉体ではなく、生命、霊であると言うことが理解出来るようになります。
そうならなければ、本当の人生はスタートしません。
ただ、魂の目覚めは終着点ではなく、出発点なのです。

それは次に待っている霊界での人生をより充実した豊かなものにするために、残された地上での人生を有意義なものに変えていく出発点なのです。

大切なのは日常です。
日常で目の前に置かれたものから逃げずに最善を尽くすことが大切なのです。
日常こそが自分という魂の修行の場なのです。

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

生命と霊と魂と身体 ① [生命と霊と魂]

ヴィーガン花コーナン1DSC_0243.JPG


いまこのブログで記しているのはあくまでも私個人の体験と知識に基づいた記事あり、私の生命としての進化、霊性の立ち位置以上のことはわかりませんし、書くことができません。
そして進化が進むにつれて書くことが変わってくることがありますが、それは紛れもなく私自身が進化向上しているからであり、私はそのことをありがたく受け止めております。

さて、生命と霊と魂と身体についてですが、これは一言で言うとこれらの用語をどのような意味で使うかによって変わってまいります。
ですから書き手によって変わってくるし、読み手によって変わってくる、そういう難しい単語であります。

私は次のように定義しています。

生命とは、生きているエネルギーのことであり、原子やクォークなどの物質とは違う、生命素という波動のようなもので出来ており、人間の物質的な視点では捉えられないエネルギーのことです。
生命には誕生と死がありません。生命は無始無終です。

身体は生命が進化をするために必要な洋服のようなものです。
身体は生命が住む場所によって変わります。
つまり生命が進化をすればするほどに、より精妙な身体という衣服を身に付けるようになります。

地球という3次元の世界では、肉体という物質でできた身体が必要になります。
生命は身体を身につけることによって、自分を表現できるようになります。
ですから、地上ではどうしても肉体という身体が必要になります。

ところがようやく身につけた肉体という身体には賞味期限があります。
それが死です。
死とは肉体という身体との別れのことであり、進化の過程で避けて通ることができません。
死後に行くのは次元の違う霊界です。

私たちは生命です。
その生命が次元の違う霊界に行く、つまり私たちは生命から霊になるわけです。
生命と霊・・・・この2つの単語が交錯して、何が何だかよくわからないという方が多いと思います。

実はこれは視点の相違にあります。
人間には、肉体的な視点と生命的な視点があります。
生きている生命エネルギーの素のことを、肉体的な視点では生命、生命的な視点では霊というのです。

つまり、生命と霊という2つのものは、同じものを違う視点から見たものなのです。
生命とは霊のことであり、霊とは生命のことに他なりません。

人間は霊性が向上すれば必ず生命的な視点、つまり霊的な視点を持つようになります。
霊は怖くはありません。
なぜならば霊とは生命そのもののことだからです。

人間は生きています。
人間は紛れもなく生命であり、そして霊なのです。
私たちは死んで霊になるのではありません。

霊だから生きているのです。
私たちは生まれる前から、もちろん今も、そして死んだ後も霊なのです。

肉体をいくら切り刻んでも、生命は見つかりません。
生命は霊の目で見ないとわかりません。

しかし、霊能者に見えているのは、生命の素ではありません。
見えているのは生命が着ている身体に他なりません。
生命の素、生命エネルギーは霊能者にも見えません。

私たち人間は地上で肉体という身体を着ていますが、実はもう一つ見えない霊体という身体を身につけています。
この霊体のことを幽体とか神体とか、様々な用語で言うようですが、私は霊体という用語を使います。

ではなぜ肉体の他に霊体を身につけているのでしょうか。
それは人間が霊だからです。
霊には霊体が必要なのです。
ただ、この霊体も進化するたびに古い霊体を捨てて新しいより精妙な霊体を身につけるようになります。

私たち人間は霊です。
そしてこの地球も霊界の一部なのです。

霊的視点とは、宇宙という大きな目で、洞察力で、見えないものを見る視点、視野のことです。
霊的視点で見ますと、生命には大きな力である生命力というものが働いていることがわかります。

それは、生命の法則、生命の摂理というものが生命に働いて起きる力です。
生命の・・は換言すれば、霊的な法則、霊的な摂理ということです。

つまり、霊には見えない霊的な法則、摂理が常に働いている、ということができます。
これは知識で知ることは可能ですが、最も大事なのは体験することである、と私は考えています。

霊的な法則、摂理が霊に働く力のことを、霊力と言います。生命力のことです。
私たち人間が生命力である霊力を体験するには、どうしても避けては通れない道があります。

それは、霊的な法則、摂理に適った生き方をするように日常で努力するということです。
それは地上を生きる人間にとっては苦しく、辛いことです。

たとえば、今日本で新聞を賑わしている問題は、ほぼ「正直」ということがテーマになっています。
正直とは、うそ、ごまかし、かくしごとをしないことです。

霊界というのは正直が当たり前の世界なのですが、地上の人間の進化がまだそこまで到達していないために起きていることなのです。
これは肉体的な視点ではなく、霊的な視点で見たときに初めて見えてくるものです。

正直に目覚めれば、つまり霊性が向上すれば人間は変わりますし、国も地球も変わります。
しかし、ニュースを見ていればわかりますが、うそ、ごまかし、かくしごとを自分から無くして行くことほど、今の人間にとって辛く苦しいことはありません。

やがて人間は正直に生きることにどれほどの価値があるのかを気づく時がやってまいります。
進化はゆっくりと、スパイラルに進んで行くものなのです。

霊的視点を得るためには、魂を磨くことが不可欠です。
それは日常で自分の前に置かれたこと、困難や障害を自らが最善を尽くして克服していくことに他なりません。

それは自分という魂が向上進化するために、避けては通れない道なのです。
魂を磨かないと、霊性は向上しませんし、霊的視点を持つこともできません。

霊能者の方に知っておいていただきたいのは、霊的視点を持ったからといってそこが終着駅ではないということです。
それは、霊的な世界の幕開けにすぎません。
霊的視点には無限の段階がありますが、それも体験しない限りわかりません。

霊性の向上には終点がありません。
魂は、この地上でもいくらでも磨くことができます。

日常を霊的な法則、摂理に従って生きるように努力することこそが、魂を磨くことになります。
それは苦難であり、辛苦ですが、霊性が向上すればするほど、それを求めるようになります。
魂が生命の霊的な進化向上を望むからです。

魂については後日の記事で記したいと思います。
コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

どうしたら人間は健康で長生きで、より幸せになれるのでしょうか? [健康と幸せ]

ヴィーガン ラーメンDSC_0200.JPG
マイセンさんの玄米ラーメンに白ネギと青ネギをトッピングしたネギラーメン

さて、健康という意味は、身体に具合の悪いところがないということだと思います。
しかし、人間は歳を取るにつれて様々なところが傷んでまいります。

肉体は機械、モノですから、これは変えようがありません。
病気にならない秘訣は、人間は生命として自然と調和した生き方をすることでしょう。

これは何も大自然の中で暮らすということではありません。
自然と調和いう意味は、自然の摂理である生命の摂理・法則に適った生き方をするということに他なりません。

これをお読みの方の中には、「自分は生命である」ということに内側から気づかれた方もいらっしゃると思います。
それは困難・苦難に打ち勝ってきたからこそだと思います。

「人間は生命である」ということに気づいたということは、ようやく生命のことを知る出発点に立ったわけです。
これから生命についてたくさんのことを学んでいかなければなりません。

「自分は生命である」ということに内側から気づくまで、生命界はずっと見守ってきたのです。
おそらくそれまでに数十年かかったことでしょう。

焦って先に進もうとしないことです。
もっとも大切なことは、自らの生命(霊)性を向上させることです。

生命(霊)性の向上は、善業などの特別なことをすることでは向上しないと私は思っています。
日常こそが大切なのです。

自分がやりたいことではなく、自分の前に置かれたことに最善を尽くすことで、生命(霊)性は向上をすると私は思います。
では、自分の前に置かれたこととはなんでしょうか。

それは一人一人違います。
たとえば家族の問題です。

ご両親の介護、兄弟の病気、子供の問題、などさまざまなことが置かれているはずです。
人間はこれらのことから逃げようとします。

逃げて楽しいことだけを追いかけようとします。
置かれたことというのは、お金にならない、時間がかかる、面倒くさくてやりたくないことなのです。

しかし、置かれたことというのは偶然に現れたわけではありません。
日常の中の出来事に最善を尽くすことにより、生命(霊)性が向上するということを体験を通して知るために現れたのです。
生命(霊)性が向上すると、より大きな生命(霊)力が働くようになります。

これは頭でわかるのではなく、体験を通して初めて自分が感ずることができるものなのです。
置かれたことから逃避するのではなく、置かれたことにチャレンジをすることが何よりも大切なことなのです。

自分がしたいことをするなと言っているのではありません。
プライオリティの一番は、置かれたことに最善を尽くすということにしないと、霊性は向上しないということなのです。

私も様々な問題が目の前に置かれています。
家族の問題、仕事の問題、そして自分の問題・・

自分のやりたいことはあります。
しかしそれよりも前に置かれたことを優先してするように心がけています。
いずれもお金にならず、時間がかかり、面倒くさいことです。

私は昨年末頃からヴィーガンになり、今年になってグルテンフリー&ノンカフェインになり、そしていま不食という領域に足を踏み入れています。
ものすごいスピードで進んでいます。

ヴィーガン&グルテンフリーになりますと、外で食事することができなくなります。
そのようなお店がないのです。

飲み物はノンカフェインですので、コーヒーもままなりません。
友人や知人と会うとき、仕事の打ち合わせなどでは、ミネラルウォーターもしくはやむを得ずカフェイン入りの紅茶を飲んでいます。

それで自分で素材を仕入れて自分で作るというようになりました。
料理が好きというわけではなかったのですが、ベジタリアンになった頃から自分で作るようになっていたので、苦ではありませんでした。

今では料理を楽しんでいますが、不食という領域に入ったために、今度はヴィーガン&グルテンフリー&ノンカフェインの料理さえも制限するようになりました。

このように自分のことで言えば、この他に家族のことと仕事のことがありますから、置かれたことに対処するのが精一杯で、自分のやりたいことが段々と消えていき、やがて置かれたことと自分がやりたいことが重なってくるのではないか、そう思っています。

不食といっても、全く食べないわけではありません。
私は家族とのコミュニケーションと和のために、朝食だけは取るようにしています。

断食と不食は違います。
断食というのは食べたい気持ちを抑えて食を断つことですが、不食というのは食べないということに違和感がなく、我慢がありません。

断食と不食は、その目的も大きく違います。
断食は自らの健康のためですが、不食は(全)生命のためです。

不食は全生命のためでもありますが、結果として自分が健康になり長生きできるようになり、より幸せを享受できるようになるのではないでしょうか。



コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

生老病死 ④死という苦しみ [死]

ヴィーガン家の風景2DSC_0222.JPG


さて、死とはなんでしょうか?

死を理解するには、生を理解しなければなりません。
生と死はコインの表と裏なのです。

生がなければ死はありません。
それと同じで、死がなければ生はありません。

私たち人間は肉体と生命を持っています。
本当の自分、自分の本質・本体は生命であり、その生命が肉体という身体を身につけているということを知ることが大切です。

人間だけではなく、すべての生きるものには生命が宿っています。
生命は進化します。

進化することが宿命づけられているのです。
進化は身体を変えるという変化を伴って行われます。

地上にいる間は、人間はずっと同じ肉体という身体をつけています。
その間に霊性の向上という進化をしたとしても肉体は変化しません。

だから進化しても身体は変わらないと思ってしまいますが、実は身体は変化しています。
身体の中身が微妙に変化しているのです。

さて、死は身体の大きな変化であるということができます。
死とは肉体を脱ぎ捨てて、生命の身体を身につけることです。

生命も見えないし、生命の身体も目では見えません。
見えないものを信じるのは、本当に難しいことですが、私は信じています。

百聞は一見にしかずと言いますが、できれば全員の方が生命の身体を見ることができるようになれば良いのにと思います。
私が知っている限りでは、生命の身体はたしかに存在します。

人間には全員に生命の眼というものが備わっているのですが、それは生命に備わっているのであり、肉体ではありません。
したがって死後は生命の身体の眼で見て、生命の身体の耳で聞き、生命の身体の口でしゃべることになります。

しかし、やがては思念で喋っているということに気づくときがきます。
人間は死後は思念で会話をするようになります。

そこには、うそ、ごまかし、かくしごとは一切ありません。
何もかもがすべて知れ渡ります。

それが私たちが死後行くことになる生命界というところです。
この生命界のことを、一般には霊界と呼びます。

私が死後行くところを生命界という言い方をするのには理由があります。
私たちは生命です。

生命である私たち人間は生命界に住んでいるはずです。
それならば、この地上は生命界ではないのでしょうか。

いえいえ、実はいま私たちが生きているこの地球も、生命界の一部なのです。
ただ、私たち地上の人間は生命と生命の身体の上に肉体という重い身体を身につけています。

だからなかなか肉体以外の生命と生命の身体があることに気づかないのです。
しかし、さまざまな苦難、困難にチャレンジするうちにやがて気づく時が必ずやってまいります。

生命界は思念で会話をするところです。
でも私たちは肉体の口で会話をしており、生命の身体を使って思念では会話をしていません。

しかし生命界というのは思念で会話をするのが当たり前の世界です。
実は、人間は重い肉体をつけているために他人の思念が受け取れなくなっているだけなのです。

いま地球の現状は、思念と言動が不一致の人が多すぎます。
ほとんどの方が、うそ、ごまかし、かくしごとをして生きており、正直ではありません。

人間は死んですぐに正直になれるわけではありません。
地上で正直に生きる訓練を自分でしておかなければ、生命界に行った時に困ることになります。

生命界ではすべての思念が暴露されてしまうからです。
このように生命界は、正直が当たり前の世界なのです。

人間は生命として進化しています。
進化すればするほど、うそ、ごまかし、かくしごとが表に出てくるようになります。

私たちは他人の不正直をただ非難、中傷するのではなく、他山の石として自らを戒めるようにすることが重要です。
これは人類全体の問題でありますが、一人一人の霊性の問題でもあるのです。

死は苦しいものではありません。
青虫が死んでチョウチョになって大空に飛んでいくように、死とは重い肉体という身体を脱ぐことであり、そこに苦しみはありません。

地上は楽園ではありません。
地上は、次に行く生命界をより良く充実して生きるために修行をするところである、と私は思っています。

その修行が苦痛となるか、楽しみとなるかは、お一人お一人の霊性というものにかかっています。
霊性が向上すればするほど、置かれた問題にチャレンジできるようになります。

チャレンジしなければ、霊性は向上しません。
自分がやりたいことではなく、やらなければならない置かれたことにチャレンジすることが重要なのです。

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

生老病死 ③病気という苦しみ [病気]

ヴィーガントマトDSC_0210.JPG

若い人の間では、ミニマリスト という人が増えているそうです。
粗食、不食というのは、ある意味ミニマリスト的な生き方であると言えそうです。

アレルギーは病気ではありません。
ただし、これは生命(霊)的視点で見たときのお話です。
アレルギーを病気としてみるのは、地上的、肉体的、物的視点で見ているからです。

地上に乳児 として生まれた生命(霊)は、肉体という物質を持つことになり、さらに飲食物という物質を食べるようになります。
アレルギーは、食べた食物が乳幼児の身体に宿っている生命(霊)に合わないのであり、肉体という身体が直接拒否反応をしているわけではありません。

それが故に、身体が成長するにつれて生命が肉体に慣れてきますので、アレルギーは自然に消えてまいります。
ジンマシン、アトピー、蓄膿症、鼻炎、喉の不具合、胃腸の不具合、花粉症、目の不調などは、アレルギー性物質を食していることが原因であることが考えられます。

もしこのような不具合が出たならば、アレルギー食品を食さないということをお試しいただけたら良いと思います。
肉や魚だけではなく、牛乳、乳製品、鶏卵、小麦粉のグルテンなど乳幼児に多い食材は、やめてみる価値はあると思います。

本来、生命(霊)自身は飲食を必要としません。
しかし、私たちは地上で肉体を持って生まれて来るために飲食は必要不可欠であると思っていますが、健康を考えたら不食という生き方が一番良いのかも知れません。

地上に誕生する人間は遠い将来ですが、不食になると私は思っています。
不食というのは全く食べないということではありません。

肉体にとってではなく、生命(霊)にとって悪い影響のあるものを食べない、飲まないということだと思います。
過食をなくし、年齢とともに飲食物を減らしていく、つまり身体を休ませてあげるという配慮が必要になってくると思います。

例えば、胃腸などの癌になる人は多いです、
その原因の1つは生命にとって良くない影響力のある飲食をしているためだと思われます。
そしてもう1つは、お腹が空いているわけでもないのに、習慣で3食を食べています。

この3食を1食に減らせば、物理的に見て胃腸などの消化器や排泄器は3倍長持ちするようになるはずです。
肉体は機械と同じモノです。

モノには寿命があります。
このモノの寿命を、生命(霊)が地上にいなければいけない時間よりも長く故障しないように保つ努力をすることが、病気をしないで健康に生きる秘訣の1つではないか、と私は考えています。

病気は結果です。
病気にならないためには、その原因を作らないように努力するしかありません。

私は、生命自身は地上で何をどれくらいの時間で成就するかということを知っていると思っています。
ただ人間は肉体という3次元の身体を持っているために、それがわからない程鈍くなっているのです。

食から入って、生命のことを知り、生命にとって良い生き方をするのは素晴らしいことである、と私は思います。
それは人間の、すべての生命の、宇宙の進化に貢献することにつながることだと思うからです。
コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

生老病死 ②老いる苦しみ [老いる]

ヴィーガン」朝食20180519DSC_0192.JPG
ヴィーガンズ ブレックファースト 
バターは ココナッツオイル100g 無調整豆乳75g 調製豆乳25g 塩少々 アップルビネガー5g 
塩とアップルビネガーはお好みで調整して下さい。豆乳とオイルは分離しやすいのでよく攪拌して下さい。
パンはスペルト粉にオーガニックレーズンを入れてHB(ホームベーカリー)の食パンコースで焼きました。



さて、老いる苦しみはなぜ起きるのかと言えば、それは肉体という身体と、心である思念とにギャップが生まれるからです。
心である思念は生命の属性であり、肉体の属性ではありません。

思念を肉体の一部である脳の産物だと思っている人がいるようですが、そうではありません。
思念が生命の属性であることは明らかであり、私たちは思念を地上で表現するために肉体の脳を使用しているに過ぎません。

生命は歳を取りません。
生命という生きたエネルギーには年齢がないのです。

肉体は見える物質というモノであり、生命は物質ではなく生きたエネルギーなのです。
この2つとも持っているのが地上の人間であり、この2つは180度相反するものなのです。

まずは正しい知識を持つことです。
肉体は老いますが、生命は老いることがないという正しい知識です。

地上の人間はあまりにも肉体的に生きています。
自分という人間は、肉体であると思っているのです。

気になるのは肉体であり、肉体の年齢こそが何よりも大事であると思って生きています。
肉体は地上を生きるために用意された道具であり、自分という本質・本体は生命という見えない生きたエネルギーである、ということに気づくように自然は様々なことを見せてくれます。

自分に起きる生老病死という現象は、自分という人間は肉体ではなく生命である、ということに気づかせてくれるありがたいものなのです。
老いていくのは肉体が生命ではなく物質、モノだからに他なりません。

飲食をすれば、口、ノド、食道、胃腸、腎臓、肝臓などの器官を使わなければなりません。
人間の器官は使い過ぎれば故障します。

故障は病気という症状で現れてきます。
人間はそれを医者や薬という他力で治そうとします。

しかし、医者では治らない病気もあります。
消化器系の病気は使いすぎで起きることが多いです。

私は年齢とともにベジタリアン→ヴィーガン→ブレサリアンになっていくのが自然で良いのではないかと思っています。
ただ健康のためだけではなく、生命とは何かということを学びつつ、その学びが深くなるごとに食のあり方を変えていくのが自然ではないでしょうか。

自然の中にある樹木は、土と太陽と水だけで何百年も健康に生きてその寿命をまっとうします。
自然には人間が生きるヒントがたくさん隠されていると思います。

老いが怖いのは、自分が肉体だと思っているからです。
その思念を変えていかなければなりません。

思念は肉体ではなく、生命の属性です。
その証拠に、死後も思念は地上時代と何も変わらずに持ち続けていくのです。

何が身体に良くて、何が食べたいかは1人1人違います。
私は無理をする必要はないと思っています。

無理をして飲食を制限するのは肉体にとって良いことだとは思いません。
しかし、肉体が黄色の信号になっているのに、それでも肉や魚、酒などをやめることが出来ないのは身体にとって良いはずがありません。

肉体が不健康になるのは、生命の摂理・法則に反してあまりにも肉体だけを意識して生きているからに他なりません。
肉体は生命に反映し、生命は肉体に反映しています。
お互いに影響しあっているのです。

日常で肉体ばかり意識せずに、生命を意識するということを心がけることが大切です。
それは、私たちの本質・本体は肉体ではなく生命である、ということを認め、受け入れることから始まります。

私たちは、否、私たちだけではありません。
全ての生きているものの本質はその身体にあるのではなく、生命という生きたエネルギーにあるのです。


コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

生老病死 ①生きる苦しみ [生きる]

ヴィーガンサラダ特大DSC_0156.JPG
写真は 取れたてレタス大盛りの ベジ グリーンサラダ
ドレッシングとフォークが小さく見えませんか。

生命は生きることを宿命づけられています。
生きることから逃れることはできません。

人間は肉体という重い身体を身につけています。
肉体という身体には、本能と言われるものが備わっています。

食欲、性欲、睡眠欲はよく知られた本能です。
肉体がある以上、この3つの本能が消えてなくなることはありません。

では欲は必要ないものなのでしょうか。
欲を全て捨ててしまえば、人生は良くなるのでしょうか。

たとえば意欲という欲があります。
あるいは他人のために何かをしたいという欲があります。

これらは人間にとって必要な欲だと思います。
全ての欲を捨ててしまったら、向上しようという意欲もなくなってしまいます。

それでは本末転倒というものです。
では私たちはいったいどう生きていけば良いのでしょうか。

その答えは一つだけです。
「生命が進化する方向に向いて生きていく」ということです。

生命が進化する方向というのは、生命の摂理・法則に適った生き方をするということです。
それは一人一人の人に託されています。

人間は地上に数十億人いますが、誰一人として自分と全く同じ霊性(生命性)の人はいません。
ですから非常に生きづらいはずです。

人間は生命ですから、一人一人生命の進化の程度が微妙に違うのです。
ただこの進化の程度というのは、地上的な尺度ではなく、生命的な尺度で見なければなりませんが、地上に生きているうちはそれは難しいです。

イエスはこのことを「後のものが先になり、先のものが後になる」と言っています。
他人のことも、自分のことさえも、どの辺りの進化の過程にいるのかはわかりません。

人間は霊性が向上するほどに他人を批判したり、非難したりせず、謙虚になるようです
生命は見えません。地上で見えるものには価値がなく、本当に価値があるのは見えないものである、ということでしょう。

地上が勉強になるのは、様々な進化の程度の人間がいるということです。
進化の程度は様々ですが、全員が完全に向かって紆余曲折しながら歩を進めているのです。

その知識があれば、人を許し、受け入れることができるようになるはずです。
そして誰に対しても変わることなく、同じ態度で接することができるようになるはずです。

そのためには、うそ、ごまかし、かくしごとという不正直を排除して、正直になるよう努力することが必要です。
それは換言すれば、愛を深く大きくしていくということでしょう。

生命は進化すればするほど、選択肢がなくなってきます。
あれもしたい、これもしたいという選択の幅が狭まってくるのです。


宗教のことを書きます。

今ある既存の宗教はモノに頼っています。
ですからどうしても 拝金的、組織的、排他的にならざるを得ません。

生命とは何かを教え、人間が進化する方向、つまり生命の摂理・法則に適った生き方を啓蒙していくのが本当の宗教である、と私は思っています。

それは拝金的ではなく、排他的ではなく、組織的ではないもののはずです。
それが本当の宗教の在り方ではないか、私はそう思っています。


コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

【ブレイクタイム】ヴィーガンズ ブレックファースト で健康を手に入れましょう!! [ブレイクタイム]

週に一度、いや月に一度でも良いですから、是非 ヴィーガンズ ブレックファースト をお試し下さい。
日本では外食でヴィーガンフードをさがすのはほぼ不可能に近いです。
ですから せめて朝食だけでも身体に良い ヴィーガンズ ブレックファースト でいきたいですね。


スペルト粉100%+ココナッツオイル+甜菜糖+食塩+調整豆乳+水+ドライイースト
HBパン生地コースで捏ねた後、型に入れオーブンで35度で1時間、その後6時間そのまま放置(睡眠のため)した後、朝起きて180度で15分焼きました。
怪我の功名、ふわふわにできあがりました。

2ビーガンブレックファースト0512.JPG


ビーガン バター(ココナッツオイル、豆乳、アップルビネガー、塩) を添えて ドリンクはココアパウダー+ココナッツシュガー+調製豆乳 これにグリーンサラダをプラスして 簡単ヴィーガンズ ブレックファースト

1ビーガンブレックファースト0512.JPG


マイセンさんのベジミンチでハンバーグを作りました。大豆と玄米のコラボは実に美味です。
レシピはマイセンさんのHP htpps://www.maisen.co.jp に詳しく載っています。
ごまペーストの代わりに玄米粉大さじ1 それにみじん切りの100%にんにく(クラブ生協)を小さじ1足しています。

ビーガンブレックファースト0512.JPG3.JPG


ハンバーグ+レタス+トマトをパンに挟んでハンバーガーを作りました。
ソースはハンバーグを焼いた後の菜種油にとんかつソース+トマトケチャップ+ワイン適量 で作りました。

ビーガンブレックファースト0512.JPG

ヴィーガンズ ブレックファースト・・朝食だけでもヴィーガン料理をつくって、健康になっていただきたいという思いで ネーミングしてみました。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

病気は「人間は生命である」ということに気づくために起こります [病気]

それは生命の法則の働きの1つである、と私は思っています。

食物アレルギーで身体に異常が出るのは、「人間の本質・本体は肉体ではなく生命である」ということに気づくためです。
生命であることに気づいて、生命の法則に適った生き方をするためです。

アレルギーだけではありません。
病気は、生命の法則に反する原因を作った結果であると私は考えています。
ですから生命の法則に適った生き方をすることにより、ほとんどの病気は改善されるはずです。

生命が運転手であり、肉体は車両です。
生命がギョシャであり、肉体は馬車です。
生命が主であり、肉体は従です。

それが逆になっているのです。
ほとんどの方は生命に気づかず、肉体を主として生きています。

自分は生命であるという意識が出て来なければ、誘惑に勝つ強い意志は生まれません。
生命の法則に適った生き方をするには、自分は生命であるという意識と生命の法則に適った生き方をするという強い意志が不可欠なのです。


霊能力について記します。

霊能力というのは五感の延長線上の能力にすぎません。
クリアな霊的視点を持つためには、五感の延長線上の霊能力を使わないという苦難に勝たねばなりません。

ほとんどの霊能者の方は霊能力を捨てきれずに、何十年も同じことを繰り返しています。
人間の本質・本体は生命であるということを得心して、生命の法則に適った生き方をするには霊能力を捨てるという選択が必須なのです。
実は霊能力も病気と同じく、人間は生命であるということに気づくために現れたにすぎません。


自分や家族に起きる病気や苦難、困難などは、人間は生命であるということに気づき、生命の法則に適った生き方をすることにより、より充実した人生とするために必要なことなのです。

全ての生命は進化するために生まれてそして死んでいきます。
死ぬのは身体です。
生命は死にません。
死とは生命が進化のために身体をより精妙なものに変えることを言います。

だからこそ、自分は生命である、ということを確信する必要があるのです。
生命の法則に適った生き方をすることにより、生命という大きなエネルギーが働くのを見ることが可能になります。

日常で生命を意識できるようになると、だんだんと生命の法則が自分や自分の環境に働いていることを意識できるようになるのです。



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

2つの視点 霊的(生命的)視点と物的(肉体的)視点 [霊的視点と物的視点]

人間の視点には2つの視点があります。
視点と言わずに視野と言うこともあります。

1つは肉体的視点です。
そしてもう一つは生命的視点です。

殆どの人は肉体的視点のみで物事を見て判断をしています。
その原因は、自分のことを肉体だと思っているからです。

しかし、実は本当に大切なのは生命的視点なのです。
生命的視点は、自分の本質・本体は生命であるということに気づくことで開いてくるものです。

肉体的視点は物質を見る目、生命的視点は物質では無いものを見る目、といっても良いかも知れません。
たとえば食物ですが、2つの視点を比べると全く違って見えます。

動物は、肉体的視点ではタンパク質などが豊富で生命力を維持するのに欠かすことが出来ない食物に見えます。
生命的視点では動物は人間と何も変わらない生命であり、寿命を全うして生命が進化できるように見守る、という目で見るようになります。

人生についても、全く違った見方をするようになります。

肉体的視点では、苦しいこと辛いことにはできる限り合わないように、この地上を少しでも楽しく、できるだけ長生きをする、それが幸せであるという生き方をします。
生命的視点では、損得ではなく、生命の進化にとってプラスな方を選択して生きるようになります。生命の法則がそのように働いていることを知るからです。そして生命は死後も続くことを得心するようになります。

自分の人生が今生で終わるのか、それとも死後にも人生があるのかでは、生き方がまったく違ってきます。
死後の人生を確信できるのは、生命的視点を持ったときです。

その第一歩は、正直になることである、と私は思っています。
自分の心をオープンに出来なければ、正直にはなれません。

うそ、ごまかし、かくしごとが無い人はいないと思います。
そして人間はそれを無くしていくことほど辛いことはありません。

しかし、正直で無ければ生命的視点は持つことが出来ません。
正直になればなるほど、生命的視点は洞察力を増していきます。

なぜならば宇宙は正直に出来ているからです。
宇宙には、うそ、ごまかし、かくしごとが1つもありません。

それが宇宙の仕組みを維持できている秘訣なのです。
うそ、ごまかし、かくしごとをなくして正直になることが生命的視点を持つ第一歩なのです。

(霊能力と生命的視点とは似て非なるものです。霊能力があるから生命的視点がすぐれているとは限りません)
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

【ブレイクタイム】ドーナツを作りました [ブレイクタイム]

DSC_0030 (002).JPG

タマゴ、乳製品は不使用です。
材料 古代スペルト小麦粉300g 甜菜糖45g ベーキングパウダー4.5g 塩少々 ココナッツオイル45g 無調整豆乳180g

170度の米油で片側7分、ひっくり返して7分揚げました(片側5分では中が生だったため)。
手で作ったので形は悪いですが、「愛」は詰まっていますよ。
揚げた後冷めてきたら、透明ビニール袋にココナッツシュガーと一緒に入れて、シャカシャカと振って下さい。
美味しいオールドファッションが8つ出来ました。

小麦がアレルギーの対象になっているのは、9000年前の古代の小麦から品種改良されてきたためだと私は思っています。
私の使用しているドイツ産の古代スペルト粉はほぼグルテンフリーだと思いますが、ゼロではないかも知れません(袋にはグルテンフリーとは記されていません)。

完全グルテンフリーの古代小麦があれば良いですね。



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

生命という視点から見たアレルギーについて [アレルギー]

鶏卵や牛乳などの乳製品アレルギーの方は多いと思います。
アレルギーは克服すべきものでしょうか?

私は生命的視点から見て、アレルギーは起こるべくして起きている、と考えています。
乳幼児にアレルギーが多いのは生命の働きがあるからだと私は考えています。

ご存知のように、未だ人類は生命という生きるエネルギーを発見することができていません。
医学でも科学でもできていません。

生命は物質ではありません。
肉体は身体であり、生命そのものではありません。

自分の本質・本体は肉体という身体ではなく、生命という生きるエネルギーであるということを得心するのは、外側からの力ではなく自分の内側からの力で気づくものである、と私は思っています。

私たちは生命としてはずっと生き続けてきたのであり、その生命が進化するために地上に肉体という身体を持って誕生した、それが人間であります。
生命とは何か、自分とは何かについては長くなりますので、また詳しく記したいと考えています。

私たちの本質・本体である生命は飲食を必要とはしていません。
ところが地上で自分を表現するために与えられた肉体は、飲食を必要とします。
そこに矛盾が生じるのです。

ここでもう一つ重要なことがあります。
それは生命には生命のための法則があるということです。
私はこの法則のことを「生命の法則」と呼んでいます。
私たち人間もさることながら、全ての生命はこの生命の法則に合わさるように創られているということです。

生命は生命の法則に合わないものは自動的に受け付けないようにできている、というのが私の考えです。
それを道義心とか良心とか理性などと呼ぶこともありますが、人間にはあらかじめそのような生命的な善悪を判断する座標軸が備わっていると言えると思います。

多くのアレルギーは、この原理によって引き起こされていると私は考えています。
年齢を経て生命が肉体に慣れてくれば、アレルギーは自然と消えていきます。

今の世の中ではアレルギーは病気であり 治す必要があると思われていますが、生命的視点で見てそれは違うのではないかと私は思っています。
アレルギーは病気ではなく、生命が生命の法則に合わないものに対して拒絶反応を示しているのであり、それが肉体に現れているものである、そう私は考えています。

生命の法則は飲食だけに働いているのではありません。
これも自分の内側からの気づきによって知る以外に、得心する方法はありません。

アレルギーは生命を守るために起きていると言っても過言ではないと思います。
私はヴィーガン+グルテンフリーですが、上記も含めて体験的に検証をしているところです。

私の今までの体験では生命という本質・本体は確実にあります。
それが本当の自分であり、肉体はこの地上で自分を表現するために与えられた身体です。
生命の法則が1つ1つの私たちの人生に影響をしているのも間違いありません。

人間の本質・本体は生命である、というもっとも大切な事実を知るために、得心するために私たちはアレルギーになるのではないか、私はいまそう考えています。





nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

生命哲学を体験を通して探究している私はヴィーガンになりました! [ヴィーガン]

ここ1~2年でヴィーガンやグルテンフリー向けの食材がずいぶんと開発されてきたように思います。
それに歩を合わせるように私はヴィーガンになり、グルテンフリーになったような気がしています。

数年前までは、まさか自分がヴィーガンになるとは思いもしませんでした。
第一ヴィーガンという言葉さえも知るよしもありませんでした。
好き嫌いは全くありませんでしたし、アレルギーもありませんでした。

私は生命とは何か、人間とは何かを追求している生命哲学者です。
机上ではなく、自分で実践して体験することにより、生命のことを知るという実践哲学者です。

しかし気がつけば、世界中の国がベジタリアン、あるいはヴィーガンという方向に少しずつ進んでいるではありませんか。
これは明らかに人間の、否、生命の進化と関係がありそうです。

生命の進化というのは、身体の進化のことではありません。
人間には生命という目で捉えられない本質・本体があり、それに身体という肉体がある、と私は考えています。

その本質・本体である生命の進化のことを言っているのです。
これは人間だけではなく、全ての生命は進化の過程にある、というのが私がたどり着いた答えです。
全ての生命は進化の過程にあり、寿命を全うして進化するために生まれ生きているのであり、決して食されるために生まれてきたのではないのです。

もし生命を途中で終わらせることが罪になるならば、私は今までに沢山の罪を犯していたことになります。
たとえ動機が重要であるとしても、大自然の摂理に照らせば、罪を犯してきたことに変わりはありません。

ベジタリアン、ヴィーガンの人というのは、生命という視点で見たときに、大自然の摂理に合致した生き方をしているということが言えるのではないでしょうか。
そういう生き方をされている先人の方達に敬意を表さずにはいられません。

その仲間入りが出来たことを有り難く思っています。







nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

-|2018年05月 |2018年06月 ブログトップ