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(霊的視点)生命は、虫までもが一つにつながっている!!

ヴィーガン映画シックスセンスDSC_0377.JPG
ブルース・ウィリス主演の映画「シックス・センス」物質的視点からではあるが、死がよく描けている作品である。ジャンルはサスペンス・スリラーやホラーに位置づけられている。



私は生命は一つであると思っている。
本当にそう思っている。

ただ、虫に愛を感じるまでには時間がかかった。
しかし、いまは虫にも愛を感じることができるようになってきた。

子供の頃はよく虫で遊んだものだ。
夏休みにトンボに糸をつけて飛ばしたり、セミやクワガタムシなどをよく捕まえていた。
海で魚を釣っては喜んでいた時期もある。

動物も鳥も魚も虫も、生き物であることはわかっていても、彼らを殺生することが悪いとは全く思っていなかったのである。
しかし今はわかる。
生命は虫までもが一つにつながっていて、自分が創った原因が結果に反映してくるということがわかっている。

虫は畑のレタスなどの野菜にも入っていることがあるが、スーパーのレタスには一匹の虫もいない。
虫がついていると売れないから、虫がつかないようにしているのである。
ところが、無農薬で創っている野菜には必ずと言って良いほど虫が入っている。
さて、皆さんはどちらのレタスがお好みであろうか。

私は以前は虫が入っていると気持ち悪くて、すぐに殺生をしていた。
そしてそのことに対してなんの罪の意識もなかったのである。

ところが、数年前頃からレタスに入っている虫が愛(いと)おしくなってきたのである。
なぜ? その時は自分でもよくわからなかったが、そのように意識が変わってきたのである。

これは野菜だけではない。
家に入ってくる虫にも愛おしさを感じるようになってきたのである。

たとえば、ゴキブリ、クモ、ムカデなどを好きな人はほとんどいないであろう。
私は数年前から家に入ってきた彼らを捕まえては外に逃がしてあげるようになった。
「もう入ってきちゃダメだよ」と諭して外に逃すようになった。

それは彼らも私たち人間と同じ霊であり、この地上に生まれてきたのは、寿命をまっとうして生命の進化に寄与するために他ならない、ということを悟ったからである。

すると私の環境が変わってきた。
家に虫が出なくなったのである。

もちろんゼロではない。
しかし、ほとんどゼロに近いくらいに出なくなったのである。
これは体験しなければわからないが、本当の話である。

これは魂の属性である精神の問題であると私は分析している。
霊的視点で見ると、人間は一人一人が肉体的→精神的→霊的という変遷を経て進化していく。
人間の魂としての進化のことを霊性の向上ともいう。

いまは地球全体が肉体的→精神的という過程にいると思える。
その精神の中の意識の問題であると私は思っている。

明らかに他の生命に対する私の愛の大きさ、深さが変わったのである。
虫という生命を認め、許し、受け入れることができるようになったのである。

しかし、これはほんの入り口に過ぎない、と私は思っている。
人間に対しては、さらなる愛のキャパシティの大きさ、深さが要求される。

愛のキャパシティを大きく深くするのは時間がかかる。
しかし、そこに意識があるのとないのとでは、結果に大きな差が開く。

つまり何を意識して生きているかということを、私たちはもっと意識する必要がある、と私は思っている。
精神が発達してくれば、なにを意識しているかを意識することができるようになるのではないだろうか。

すべての生き物が人間と同じ霊であるということは、信じがたいことかもしれないし、認められない人もいるだろう。
しかし、進化のどの過程に位置しているかという違いだけであり、みな同じ霊なのである。

「霊とは生命のことであり、生命とは霊のことである」これはシルバーバーチの霊訓第1巻に何度も出てくるフレーズである。
なぜこの言葉がこんなにたくさん出てくるのであろうか。
それは「人間は霊である」という人間がもっとも知らなければならない真理を人間にわかってもらうためである。

すべての生命はつながっている。
物理的にではなく、霊的につながっているのである。

生命は一つなのである。

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(霊的視点)ガン、認知症にならない生き方

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ガンという病気は、異常な細胞が増殖をして肉体を蝕んでいく病気である。
治療では、ハード面で米国ダヴィンチ社などのロボット手術や放射線をピンポイントで照射する科学技術などが目覚ましい進歩を見せている。
また治療薬も開発されているが、どれも検証例に乏しく、信頼できる薬は開発されていない。

ガンが発症しても初期あるいは部位によって上記のロボット手術や放射線治療で取り除くことは可能であるし、保険の適用も始まっている。
だから今までのまま生きていくことはできる。

しかし、これらの治療法というのは、すべてガンが発症した後の対処療法であるし、放っておけば再発の可能性も高い。
実は、上記の病理学的な見方というのは、すべて地上的な肉体的な物質的な視点での見方である。

物質的な視点でいくら診ても、問題は解決を見ないであろうと思う。
なぜならば、生命というのは物質ではないからである。

「一点非の打ちどころのない人がガンでなくなりました」という問いに、シルバーバーチは答えている。
「その答えは簡単です。その人は一点非の打ちどころのなかった人生を送っていなかったということです。もし一点非の打ちどころのない人生を送っていればガンにはなりません。ガンになったということがどこか摂理に反していた証拠です」

さて、私たちはガンにならないために、どのように生きていけばよいのだろうか。
そのためにはガンを物質的視点ではなく、霊的視点で診る必要がある。

シルバーバーチが言うように、すべての病気は霊的な摂理に反した原因により、その結果が肉体に現象化して現れたものである。
ガンは魂が霊的摂理に反したことを行ったことを反映して、細胞が反旗を翻したに過ぎないのである。

たとえば、親がタバコを吸っていれば、子供は未成年でもタバコを吸う可能性は高くなる。
それは子が親を反映しているからであり、鏡の原則が働いているに過ぎない。

霊的視点で見ると、人間は肉体的→精神的→霊的という進化の道を辿る。
いまの時代は、肉体的→精神的という変遷の渦中であろうと思う。

ということは、ガンは精神に大きく依存している病気であるということができる。
精神とは意識と意志をどのようにコントロールしていくかという魂の属性である。
(魂は霊の属性である)

精神を進化させるには、意識を高く意志を強くすればよい。
それは物質的な、自己中心的な欲や損得を放していくことがカギであると思う。
換言すれば愛を大きく深くして、人に対して自分がして欲しいことをしてあげればよいのである。

具体的には、
憎しみやねたみからの愚痴や陰口はつつしみ、思念からも放り出す必要がある。
自分をよく見せたいと言う虚栄心をなくし、心をオープンにすることである。
だれもが壁に突き当たり辛く苦しい思いをしている、どんな壁でもチャレンジし続けることでいつか必ず越えることができるという信念を持つことである。
人は人、自分は自分である。人を相手とせずに天を相手とすればよい。人を相手とするから意地汚くなるのである。

予防は霊的摂理に反しない生き方、つまり肉主霊従ではなく、霊主肉従で生きるよう努力する以外に路はないのである。


ガンとともに認知症が増えているが、これも同様に精神に依存する病気である。

認知症は自分がわからなくなる病気である。
肉体的には脳の一部の細胞の異変で起きるのであるがこれは結果であり、原因は霊的なものにある。

なぜ自分がわからなくなるかと言うと、自分を正直に、オープンにしていないからである。
オープンにするということは、うそ、ごまかし、かくしごとをしないことである。
特に家族に対して不正直なのは言語道断であるが、そういう人が多いのである。

うそ、ごまかし、かくしごとをしていれば、年齢を経てくれば何が正しいのか、本当なのかがわからなくなっても仕方がないであろう。
それが認知症という病気で現れたのであって、原因は自分で創っているのである。

いずれにしろ、病気は自分という魂が間違った方向に行っているということを気づかせるために起きる現象であることは確かである。
それを防ぐも防がないも、責任は当事者である自分という魂にあるが、摂理を常に意識して、誘惑に負けないでより霊的に生きるという意志をみずから育てていくしかないのである。

死後私たちは霊界に行くが、霊界では自分という人間、魂が丸裸にされるのであり、そこには一つのうそ、ごまかし、かくしごとも存在しない、存在できない世界なのである。
地上はその訓練の場に過ぎないのである。

霊性の向上こそが人間の使命であるという所以である。
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霊的に精神病を診る

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精神病とは、精神がきちんと機能していないことを言う。
起きる原因は様々だが、何かの原因の結果起きていることは間違いない。

結果として不眠症、皮膚病、霊聴、妄想、心身不安定などの症状が出たり、家族への暴力なども起きることがある。
また症例は少ないが、霊の憑依で自分ではないものが口を使って喋る事もある。
私が知っている症例では、憑依されている数年間、或いは数十年間の記憶が全くない人がいた。

いずれも本人の精神、つまり魂の問題ではあるが、家族の関わり方や環境も大きい。
精神病は思春期を過ぎる頃から発症することが多い。
閉じこもりや暴力は、精神病でなくても反抗期には見られるものなので、家族の対処の仕方、心の持ち方が非常に重要であると言える。

ご両親に大事なのは、家庭の中でうそ、ごまかし、かくしごとをしないことである。
たとえば、父親は外での飲む、打つ、買うをやめることである。
母親は愚痴や悪口を言わず、人を非難、中傷、恨み、妬みなどの心を持たないようにすることである。

そんな見えないところまでどうして気を使わなければならないのかと思うかもしれないが、見えないところが大事なのである。
精神病とは本人の病気であるが、実は家族の病気でもあるのだ。

霊的視点で見た病気というのは必ず原因があり、その原因の結果として出てきた現象に過ぎない。
だからその原因を取り除けば、病気は治るはずである。
シルバーバーチも「治らない病気はない」と言っている。

では原因は何なのか?
それは霊的摂理に反したことをしたからに他ならない。
これは本人と家族両方に責任がある。

しかし未成年の本人はまだ自己が確立されておらず、その責任は本人以外の家族に大きく委ねられている。
つまり両親が霊的摂理に反しているから起きていると思った方が良いし、そう思わなければ、なかなか解決はしないであろう。

場合によっては両親が子供を病院に入院させることがあるが、他力本願では病気が治ることはほとんどない。
なぜないかというと、最も必要なものが病院では受けられないからである。

最も必要なもの、それは治療やクスリではなく、「愛」である。

子供が精神病になると、親は自分の体裁や家庭の崩壊を心配する。
これは子供を認め、許し、受け入れるという「愛」が足りないためである。

両親は、なぜ自分がこんなに不幸な目に合わなければならないのか、どこか良い病院はないものかと言うように、自分の責任ではなく、責任を他にすり替えてしまうのである。

ここで両親が愛が足りなかったことを心から反省して生き方を変えない限り、子供が精神病から治ることはほとんどない。
愛が充分な親はいないと言っても良い。みんな進化の過程にあり、不完全だから地球に生まれて来たのである。
「愛」とは自己中心的ではなく、「自分がして欲しいように、人にしてあげること」である。

たとえば自分が精神病と診断されて、精神病院に強制入院させられたとしたら、あなたはどう思うだろうか。
そこに両親の「愛」を感じることができるだろうか。

精神病でなくても、子供のいうことは面倒臭いことばかりである。
しかし、愛とはこの面倒臭いことを「面倒臭い」とか「嫌だなあ」と思わずにしてあげることなのである。
なぜならば「愛」とは「自分がして欲しいように、人にしてあげること」に他ならないからである。

子供の病気というのは、親の愛の大きさ、深さが試されているのである。
それは親に必要だから現れたのであって、自分たちが変われば必ず克服できるものなのである。

ところが人間は簡単には変われない。
親が変わらなければ、兄弟姉妹が変わるしかない。

私はある姉妹の姉が精神病で長く患っていたのを知っている。
両親は変われずにそのまま他界をした。
残された妹を姉が頼ってきた。
結婚して家庭を持っていたが、妹は姉を快く受け入れて、最善を尽くす、つまり「自分がして欲しいように、姉にしてあげよう」と心に決め、経済的な援助も含めて、「愛」を処方したのである。
その結果、姉は統合失調症が癒えてきて、皮膚病や不眠症などが改善されてきたのである。
姉は現在70歳の一人暮らしであるが、ようやく幸せをつかみかけている。

シルバーバーチは語る。
「愛の力は何にもまさる大きな力です」
「しかし、その愛よりもはるかに大きいのは霊の力である霊力です。

霊力とは霊的摂理に従って働く力である。
愛とは霊的摂理の根幹をなすものである。

この姉妹の例は深く大きい愛を与えた結果として霊的摂理が働き、霊力が働いて姉の病気が改善されたものである。
これは姉に現れた病気であるが、妹の試練だったのだと私は思う。
このような妹の行為こそが、シルバーバーチの言う善行なのだと思う。
善行とはこのように最もしがたいことを人にしてあげることにより成り立つものである。
善行とは特別に何かをすることではなく、誰の目の前にもある日常の事なのである。
ただそれに気づいて、或いは気づいたとしても、目を背けて楽な善行をする人は多い。

どちらが霊性を向上させるかは明らかであろう。

成人前にかかる病気はこのように、家族や周りの人の「愛」が試される病気が多いが、成人以降にかかる病気というのは、やはり本人が原因を創っていると言える。

従って本人が変わらなければ、病気が根底から治る可能性は低い。
逆に言えば、本人が変われば病気は治る可能性が高いということができる。

人間は「もうダメだ」と思うほど落ちなければ気がつかないという。
予防とは、先に気づいてそうならないように行動することである。
霊的な予防は先に苦しみや辛さを味わうことであり、放っておけば後から苦しみや辛さを味わうことになる。

日本はサムライ時代のように悪代官が高い年貢を取り立てる時代に逆戻りしつつある。
それは国民があまりにも物質優先で肉体的に生きているためである。

霊的な予防こそが個人を救い、国家を救うことになる。
霊的に目覚めて、霊的に生きるようになれば、医療費も防衛費も限りなくゼロに近づけることが可能なのである。

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世界は食から変わろうとしている!

ヴィーガン人生は廻る輪のようにDSC_0366.JPG
エリザベス・キューブラー・ロスという女医の壮絶な霊的な自伝です。感動的で一読の価値はあります。


さて、私はまず霊的に目覚め、そのあとで生命とは何かを知り、そして食に目覚めた。

しかしこれからは、健康から食に目覚め、生命とは何かを知り、その後に生命が霊であることを知り、自分が霊であることに気づく人が増えていくのではないかと思う。
目覚める順番はどうでも良いのであるが、最後は「人間は霊であり、全ての生命は霊である」というところに帰着するのだと思う。

子供の頃の私は食が細く、いなり寿司とおはぎが好きであったが、食べるのは遅く時間がかかった。
食べることがそれほど好きではなかったのだと思う。

ところが働くようになってから、少しづつそれが変わってきた。
ラーメンをよく食べるようになり、中年になるとサカナや寿司をよく食べるようになった。
もちろんトンカツなどの肉もよく食べた。

魂とか霊というのは霧がかかって全く見えない状態であり、この地上の人生をとにかく謳歌しよう、悔いないように生きようという思いでいっぱいだったような気がする。
多くの方がそうだと思うが、肉や魚を食することが当たり前になっていたし、また好き嫌いなく食べなければ栄養が偏って健康を害するということを、心のどこかで信じさせられていたのだと思う。

お酒が好きな人は多いと思う。
お酒を飲むと自分がゆるくなり縛りから解放され楽になる。
しかし霊的に見てお酒にはプラス要因はないと私は思っている。

シルバーバーチは事あるごとに「動機が大事です」と言っている。
肉や魚を食していても、それが当たり前の世の中であれば、それは致し方ないのだと思う。
これは個人ではなく、人類全体の生命・霊の進化の問題だからである。

しかし同時にシルバーバーチは「霊的な摂理の裏側にも霊的な摂理があり、それが幾重にもなっています」と言っている。
つまり動機としての罪はないが、生命を害するという罪はある、と言っているのである。

霊的な視点で見ると、生命は寿命をまっとうして進化するために生まれてきたのであり、人間に食されるために生まれてきたのではないという事である。
それは生命は進化をする宿命にあるからであり、生命を途中で終わらせる権利は誰にもない。

動物や鳥や魚は捕まえようとすると逃げる、殺生すれば血を流す。
人間とどこも変わりはしない、違うのは霊がどの進化の過程にいるかという違いだけである。

人間は勘違いをしている。
自分が偉いと思っているのである。
これは人間のおごりであり、慢心である。

霊に上下、貴賤はない。
どの生命にも人間と何も変わらない霊が宿っているのである。

人間は生活と食を改めることにより、健康を回復する機能を有している、と私は思っている。
シルバーバーチも「治せない病気はない」と断言している。

健康を害することは辛く苦しいことではあるが、そこから食に目覚め、生命とは何か、霊とは何かに気づくことになれば、霊的な目で見て病気も大いに役立っていると思う。

また食べすぎ、飽食という点でも現代は行き過ぎの感がある。
私たちは三食腹一杯食べるのが習慣になっている人が多いが、それが続くと健康を害する可能性がある。

私は60歳を過ぎたら、食の量を減らしていくのが良いと思っている。
70歳を過ぎたら、何かの運動をしていなければ、1日一食でも良いと思っている。

私はいま60代であるが、1日一食、朝しか食べない。
私はヴィーガンであり、そしてグルテンフリーなので、ずべて自分でつくって食するようにしている。

日本の街中にはヴィーガン&グルテンフリー専門のレストランは一軒もない。
つまり生命のことを最優先として商売をしている人はまだ一人もいない、ということである。

いまは私はそれを甘んじて受け止めている。
それは人間は将来必ずヴィーガンとグルテンフリーの食に目覚める日が来る、と信じて疑わないからである。

いま私は、世界中が食に目覚めようとしていると感じている。
世界中からベジタリアンやヴィーガンが生まれてきている。

ベジタリアンやヴィーガンやグルテンフリーのお店が増えて、そこから生命とは何かを知り、霊に目覚めることにつながれば、素晴らしいことだと思う。

世界は食から変わる、天はそう望んでいる、私にはそう思えて仕方がない。

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霊的視点で見る「幸せとは何か」

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それは平常 何を意識しているかによって一人一人違う。

肉体に意識があれば、肉体的な満足の時に幸せと感じるはずである。
魂や霊に意識があれば、高みを目標にして向上を目指す自分に幸せを感じるはずである。

自分が何を意識して生きているかを何も意識しなければ、人間は肉体的な欲に動かされることが多い。
そして肉体的な満足の時を幸せと感じていることが多いはずである。

魂が打たれて磨かれてくれば、意識は変わって来る。
そのためには楽を選ばずに苦を選ぶことである。
人生は選択の連続である。
苦楽のどちらを選ぶのかによって、魂のあり方が変わる。

マザーテレサは「常に難しい方を選びなさい」と言っている。
シルバーバーチは「地上的視点と霊的視点では物の見方が180度違います」と言っている。

地上で生きていると、どうしても楽な方を選んでしまいがちである。
その楽な方は、霊的視点で見て、霊的摂理に反していることが多いというわけである。

なぜかというと、楽な方はまったく魂の出番がなく、ほぼ肉体的な自分だけで事足りるからである。
ところが難しい方というのは、辛苦が伴うものである。

この苦しみや辛さが魂を精錬し純金へと磨いていくのである。
魂が磨かれなければ意識は向上しない。

魂が磨かれるためには、「常に難しい方を選ぶ。苦しく辛い方を選ぶ」ということが不可欠である。
困難、辛苦、病気、悲しみ、危機的な状況というのは、まさに魂の試練のために置かれるものである。

偶然は一つもない。
そして克服できない困難、辛苦、病気、悲しみ、危機的な状況というものもない。

もし霊的な幸せを願うならば、楽な方を選ぶことなく、困難、辛苦な方を選択してほしいと思う。
シルバーバーチがいう最善を尽くす人生とは、置かれたものから逃げることなく困難な方を選択し続ける人生を言っているのである。

人間は霊であり、そして魂なのである。
魂が磨かれなければ、霊は奥に引っ込んだままである。

それではいくら待っても霊性は発現しない。
霊性が発現するためには、困難、辛苦に飛び込んで、相撲で言えばがっぷり四つになって取り組むことである。
人生はその連続であると言える。

シルバーバーチは地上への任務を依頼された。
シルバーバーチは「地上のような荒廃した汚れた環境には行きたくない」とハッキリと言っている。
それでも地球に来ることを選択したのは、彼の自由意志が難しい方、困難で苦しく辛い方を選んだからである。

このように霊性が高くなればなるほど、困難・苦難から逃げることなくチャレンジするようになる。
なぜならば困難・苦難は、霊性が発現・向上する千載一遇のチャンスと捉えられるようになるからである。

翻って、私たちはどうだろうか。
困難、苦難、病気、悲しみ、危機的な状況が目の前に置かれたら、それから逃げずに選択することができているだろうか。

これは自分の自由意志を自由に出来るかどうかの自由度の問題である。
多くの方は自分の自由意志が自由にならずに肉体に引っ張られていないだろうか。

シルバーバーチは「霊性が向上すればするほど自由意志の範囲は広がります」と言っている。
肉体に気持ちが引きづられるのは、自由意志の範囲が狭いからである。
それはほとんど自由意志が機能していない状態なのである。

肉体の満足は瞬時の出来事で終わる。
そして継続性もない。
だから、「幸せとは何か」といつも悶々としてしまうのである。

真の幸せとは、霊と魂にしかない。
魂が幸せを感じるのは、目の前に置かれた困難、苦難から逃げずに挑戦している時ではないだろうか。

闇を抜ければ光がある。
困難・苦難の先にあるのは、霊性の発現・向上である。

だが、霊性が発現・向上したからと言って、慢心してはいけない。
人生はその繰り返しなのである。
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私の悟り・・ヒーリングについて気がついたこと

ヴィーガン軽井沢あさもやの中の木115.JPG


私はヒーリングをやめて3年になる。
なぜやめたかというと、同じところをグルグルと回っていると思ったからである。

まず、患者は求めれば来るが、求めなければ来ない。
そして治ったかと思うとしばらくしてまた元に戻っている、ということが続いたからである。
それでも尚やり続けて結果を残せれば良いが、私には続けることが良い結果を招くとは思えなかったのである。

そして3年が過ぎて、昨日シルバーバーチの本を読んでいてハッと気づいたことがある。
今までは似たような意識はあったが、ハッキリと「これだ」と思えるものはなかった。

実は「患者を治したい」という意識にはさまざまな意識の段階がある。
「病気を治してあげたい」というのは利他の心であり、何も悪いことではない。
しかし、この病気を治したいという心があるうちはスピリチュアルヒーリングはできない、私はそう悟ったのである。

それは肉体という物質にまだ自分の意識が囚われているからである。
物質を治したいという意識はスピリチュアルな意識ではなくサイキックな意識に過ぎない、そう思ったのである。

ではどういう意識でいれば良いのか。
それは、患者だけではなく、どの人に対しても分け隔てなく、「この人の魂が琴線に触れ、霊的に目覚めること」「人間は霊であるということを悟ること」のみを願って接することができるかどうかということだと私は思ったのである。

私はまだ凡人であるから、人を目の前にすると、あれやこれやといらない詮索をしてしまう。
それが余計なのである。

それはまだ「人間は霊である」ということを頭で理解している段階であり、自分という魂、霊が反応していない段階なのである。
霊が霊に対して無意識に反応する、どうやらスピリチュアルヒーリングというのは、そこまで自分の意識を高めていかないとできないようである。

スピリチュアルヒーリングができるようになると、霊が患者を連れてくるようになる。
スピリチュアルヒーリングができるようになると、すれ違っただけで病人は全快する。

自分が地上にいる間に、ここまで意識が向上するかどうかはまったく自信がない。
しかし、気がついたということは、ゴーサインであろうと私は思っている。

シルバーバーチは、人間は進化すればするほどに選択の幅が広がり、より自由意志を行使できるようになると述べている。
確かに選択の幅は広がっている。
しかし、自分の進むべき道は一つしかない。

地上の人生は短い、しかし人生は長い。
だから私はこのたったひとつの道を進もうと思っている。

生命のためにもっともっと寄与したい。
そのためには霊性を向上させて、自分を変えていかなければならない。

私はいままた意を新たにしている。
日常こそ私の修行の場であると・・。


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霊的視点で見た「人生とは・・」

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自分は非力である、本当にそう思う。
霊的に目覚めてから7年が過ぎた。

目覚めてからメチャクチャ本を読んだ。
300冊以上は購入したと思う。

多くの霊能者の方ともお会いした。
背後霊の言葉に関して、同じことを言った霊能者の方が2人だけいた。

いま読んでいるのは近藤千雄氏訳のシルバーバーチの本だけである。
どんなに日常で世俗にまみれても、夜シルバーバーチの本を開けば落ち着きを取り戻すことができる。

肉体という身体を持ちながら、霊的に生きることは大変なことであると思う。
以前は、なぜこんなに大変なことを自分がしなければならないのか、とよく自問自答したものである。

いまは、自分がやりたいことと自分の前に置かれることは違うということがわかるが、以前はよく分からなかった。
だからヒーリングが使命だと思ってやったこともあるが、いまはやっていない。
なぜやっていないかというと、最優先でしなければいけないことがあることに気づいたからである。

それをやらなければ、人生が良くならないということに気づいたのである。
人生というのは、私と私の環境の両方の人生である。

環境というのは、家族、兄弟姉妹、両親、仕事、ご近所などの周りの縁ある人たちのことである。
なぜならば自分の幸せは、その人たちの幸せなしには考えられないからである。

どんなに仕事で成功したとしても、例えばもし家族に不幸があったら全てが吹き飛んでしまうだろう。
私は嫌だ。そんなのは絶対に嫌である。
自分がやりたいことではなく、目の前に置かれたことに最善を尽くす、そう決めた動機は、自分が霊性を向上させなければ、自分の環境にいる人たちの人生が良くならない、そう思ったからである。

自分の霊性を向上させるのも下降させるのも全ては自分次第であるが、自分だけではなく周りの環境も自分が創っている、そう思ったからである。
人間は自分のためではなく、誰かのためであればより力が発揮される。

これは肉体的な話ではなく、霊的な話である。
自分という人間が与えている影響は、肉体のある霊だけではなく、肉体を持たない霊にも及んでいるということである。

シルバーバーチは、何かの折りに「この狭い会場に五千人の霊が来ております」と言っていたが、私たち人間と霊とが影響を与えあっているのは間違いない。
ならば尚更のこと、たった一人が霊性を向上させていくことにより、もしかしたら数千の霊がその良い影響を受ける可能性がある、と言えるのではないだろうか。

霊界に行ってすぐに霊性が向上するわけがない、と私は思っている。
地上で何も学ばずに霊界に行った霊が、地上に近い霊界で苦しんでいる。
死んだことに気づかず、気づいたとしても死後の世界をどう生きて行ったら良いのかわからずに悶々とした日々を送っている。

もし地上の一人が霊的に目覚めて、霊性を向上させるという日々を送ることができたならば、周りの人間だけではなく、自分と縁のある多くの霊を救うことができるかもしれない。
たった一人の霊性の向上が、多くの霊を救うことになる。

人間は不完全極まりない。
私は時折肉体的な自分が頭を持ち上げる時がある。

私という魂が、肉体的な自分を意識する時である。
霊が勝つか、肉体が勝つか、葛藤である。

葛藤は相撲に似ていると思う。
何も知らなければ、ほとんど肉体が霊を押し出しているのではないだろうか。
しかし、葛藤することに気がついてくると、だんだんと大相撲になることが多くなる。
肉体にかなり押されていても、土俵際でうっちゃりで霊が勝つことも多くなってくる。

霊が肉体に負けないためには、やはり高い意識と強い意志を育てなければならない。
この二つのことを精神という。

シルバーバーチが言うように、霊性の向上は肉体的→精神的→霊的 という順序で歩を進めていくのであり、いきなり肉体的→霊的に向上することはない。


人間に霊能力が現れるのは、人間の本質は肉体ではなく霊である、ということを教えるためである。
ところが人間は霊能力が現れるとすぐに使いたがるが、高い霊界の霊達はそれを危惧している。

霊能力は名の通り、霊界の霊がいるから使える能力の一つである。
大事なのは、霊能者の霊性以上の霊とは近づきになれない、ということである。

多くの霊能者は霊性の向上ではなく、霊能力を使うことに力を注いでいる。
霊能力を使うということは霊能者がやりたいことであり、目の前に置かれたことではない。

目に前におかれたのは、霊能力を使わずに霊性を向上させるという、とてつもなく辛く苦しい修行である。
だからそこから逃げる霊能者が多い。
これはまことに残念なことである。

逃げれば霊性の向上はなおざりになる。
だから何年経っても同じところをグルグルと回っていることになる。

そんなつまらないことが人間の使命であるはずがない。
人間の使命とは、もっと厳しくて辛いものであり、それによって周りの人間だけではなく、多くの霊も救われなければならない、大事業のはずである。

霊性の向上は、誰にも公にせず、ただひたすら自分に課して日常で実践していくという、誠に地味なあまりにも目立たないものである。
目立たず、名声も、地位も、肩書きも、名誉も、もちろん組織もない。
たった1人で行う大事業である、だから苦しいのである。辛いのである。

この苦しい、辛い体験を経て、初めて人間は霊性が向上するのである。
霊性が向上すれば、自分が未熟であり不完全である、ということに更に気づくことになる。

だから更に霊性を向上させようと努力するようになるのである。
努力が苦にならなくなってくるのである。

霊性が向上してくれば、自分の霊性が自分と自分の環境を創っているということに気がつくようになる。
霊力は霊性のあり方に従って顕れているだけであるということに気づくようになる。

ますます「霊性の向上こそが人間の使命である」と思うようになってくるのである。

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霊性の向上とは意識を肉体→霊へとギアチェンジさせていくこと

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いまあなたは生きている。
自分は生きているという意識がある。

だがそれは脳を使って考えていることが多い。
それを魂で思い、感ずるようにする。

脳というのは肉体である。
魂というのは生命である霊の属性であり、あなたという個である。

意識は精神であるが、精神は魂の属性に他ならない。
つまり意識とは魂の状態、現れを表している言葉であり、意識=魂と言っても良いと私は思う。

では、何を意識して生きていけば良いのだろうか。
これは大きく二つに分けられると思う。

一方は、魂がまだ琴線に触れていない人、霊的に覚醒していない人である。
そしてもう一方は、魂が琴線に触れた人、霊的に覚醒した人である。

琴線に触れたか触れていないかは自分で意識できるものである。
琴線に触れたということは「人間は霊である」ということを受け入れる準備が整ったということに他ならない。

準備が整ったら、「人間は霊である」ということから逃げずに、認め受け入れることである。
「自分は霊であり、その属性の魂という個性が肉体を通して自己を表現している」という意識を持つようにすると良い。

人間には欲があるから意識は肉体に留まろうと抵抗をするだろう。
抵抗はあなたの弱い部分を誘惑してくるであろう。
だが、その抵抗、誘惑に負けないようにしなければならない。

一般的には、物的に得をしようとすると、霊的な向上は得られないことが多い。
つまり物的な得は、霊的な損である、と心得ていれば良い。

物的というのは、金銭、地位、名誉、肉体、慢心(うぬぼれ)・・などの欲である。
物的に損をするということは、誰かが得をしたということである。

人間は自分が損をするということがなかなか許せないものである。
それが怒り、愚痴(悪口)、不正直という人間の3大悪癖を生むことになる。

忍耐心と寛容心を育てなければ、霊的な得、つまり向上は得られない。
それは相手を認め、許し、受け入れるということに他ならない。

それはまさしくとてつもない苦難であり、魂の修行である。
このように魂の向上は苦難を伴って初めて可能になるのであり、シルバーバーチは「霊性の向上に伴う苦難がもっとも厳しい苦難である」と言ってる。

人を許せるようになるのは、人間はそれぞれが進化の一過程にあり、一人一人その立ち位置は違う、つまり霊性は一人一人違っていて同じ人はいないということを知っているからできるようになるのである。

知識があるから、人を認め、許し、受け入れることができるようになるのである。
知識はこのように体験を通して絶対的な摂理として自分の中に蓄積されていくのである。

霊的な摂理にかなった生き方をしようとする強い意識がなければ、誘惑を排除する強い意志は育たない。
その根底にあるのは「人間は霊である」「自分は霊である」という絶対に揺るがない理念、哲学、背骨である。

このような体験を通して魂が向上してくれば、得をした時には損をしたと思い、損をした時には得をしたと思うように意識が180度変わってくる。
さらに、意識を意識することにより、魂がどこの進化の過程にいるのかを客観的に、換言すれば、霊的に見ることができるようになってくる。

魂という意識を霊という意識で、意識的に見るようにするのである。
魂も霊もどちらも自分である。

さて、魂が琴線に触れるまでは、日常に最善を尽くして生きることである。
目の前の困難、障害から逃げずに、相撲で言えばがっぷり四つになって自分が取り組むことである。

魂が琴線に触れた後は、「自分は霊である」ということを意識して、まずは自分の中から、うそ、ごまかし、かくしごとを排除していくことである。
まずは言動から、そして思念からも排除していくように努力していくことである。

人間は不完全な生き物である。
それを自覚して、より完全に向けて進んでいくという意識を持って日常を過ごすことが大事である。


意識を意識して向上させること、それが霊性の向上につながる。
地上でも、霊界でも、自分と自分の環境に顕れる現象は、意識以上のものでも以下でもないのである。

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人間と霊界の霊

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シルバーバーチは、三千年前に地球を他界した高級霊である。
いまは大気圏外に住んでいるので、地球には近づくことができない。
地球があまりにも人間の自己中心的な欲で汚れているからに他ならない。

そこで当時まだ大気圏内にいたと思われる元レッドインディアンのシルバーバーチと名乗る霊媒の身体を借りて真理を地上に届け、それがシルバーバーチの霊訓という書籍になったのである。
シルバーバーチが霊言を始めたのは、今からおよそ100年前の1920年のことである。
シルバーバーチは約60年間に亘り、人間、生命、進化、霊性、生命力、霊、霊力、神、摂理、宇宙の仕組みなどを説いた。

そしてシルバーバーチは最後まで地上時代の自分の名前を明かさなかった。
ここがすごいのである。
高級霊たる所以である。

ひるがえって、私たちはどうだろう。
少し何かに成功しただけで、すぐに有頂天になり人を見下し、自分は特別な存在であると思ってしまうところがないだろうか。

ノーベル平和賞よりも優れた業績を残しながら、名も告げずに地上にいること、そして地上を去ることができるだろうか。
たった一人で、組織も作らずに、ただただ人々の向上を願って、誰をも分け隔てせずに真理を普及する。
これが本当の宗教ではないだろうか。

私は宗教家ではないが、祖父はある宗派の住職を務めていた。
ところが祖父は途中で宗派替えをして、移った先のお寺でもまた住職を務めていた。
おそらく祖父は真理を追求していたのであろうが、宗派を移っても真理には出会えなかったのではないか、私はそう思っている。

いまの日本の宗教は法律に守られている。
宗教という組織を作れば、税金が免除されるのである。
そういう意味で、宗教はいわば既得権である。

霊的な真理ではなく、物質的な刹那的な損得でいまの既存の宗教は成り立っていると私は思う。
宗教というのは一人一人の心の中にあるのであり、それを他者に求めるいわゆる他力本願的な宗教というのは、真理ではない。
シルバーバーチも「私をリスペクトするな」と幾度となく警鐘を鳴らしている。

私たちが生まれてきた目的は、霊性の向上にある。
それを求めて、宗教の門を叩く人も多いがそれは勘違いというものである。 それは求めているものが霊性の向上ではなく、霊的な能力の向上だからである。

誰もが特別な能力が欲しい、物質に恵まれ幸せになりたいと思っている。
だが性急な能力の向上を求めるのは、はなはだ危険である。
そこには大きな落とし穴がある。

それは、人間は霊だからである。 人間は霊であり、霊界の霊もまた霊なのである。
霊に貴賤の上下はない。
あるのは霊性の違い、換言すれば進化のどの過程にいるかの相違だけである。

動物や植物をよく観察していただきたい。
彼らは群れをなしている。 これは生命である霊の特徴である。
霊は群れをなす。

人間という霊もまた然りである。
霊は同じ霊性のもの同士で群れをなすのである。
それは霊界を見ればわかる。

地上では自分とは霊性の違うものがたくさん住んでいる。
だから生きにくいが、違う霊性があるということを学び、認め、許し、受け入れるという愛を大きく深くするためである。
なぜならば霊性の向上とは、愛を大きく深くしていくことに他ならないからである。

さて、話を霊の話に戻そう。
霊界での摂理は完全に施行されていて、どんなに些細なことも見落とされることは絶対にない。

霊界での霊は群れをなす、その基準は、霊性にある、 霊性が絶対の基準なのである。
人間で言えば言動と思念、霊で言えば思念である。
人間の言動も元を正せば思念である。

つまり、人間も霊も、その霊性は思念に現れるということができる。
ところが人間は自分の思念は誰にもわからないと思って生きている。
それは霊的な摂理を理解していないことによる間違いである。

霊界の霊は思念で会話をしているのである。
そこではすべてのことが明るみに出てしまい、一つのうそ、ごまかし、かくしごとも出来ない仕組みになっているのである。

霊界の霊はあなたの思念を見て、聞いているのである。
ここでいう霊界の霊というのは、地球にへばりついている霊のことであり、シルバーバーチのような大気圏外の霊のことではない。

霊能力が現れたからといって、性急にことを進めようとすれば間違えが起きる。
なぜならば霊能力は現れたが、まだ霊性がなおざりにされたままであり、なんの向上もしていないからである。

したがって霊性を向上させずに霊能力を使えば、同じところをグルグルと回ることになる。
どんな霊能者でも、10年も同じことを続けているのは、明らかに地球にへばりついている背後霊の影響である。
その元を正せば、自分が霊能力などの欲を離せずに霊性を向上させていないからに他ならない。

霊は群れをなす。 人間は霊であり、地球も霊界の一部なのである。
だからこそ人間は霊性の向上をプライオリティの一番にしなければならないのである。

そしてそれは地上だけにとどまらず、死後にも続いていくことになるのである。
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霊と肉体は180度違う。その狭間で魂である自分が葛藤する

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昼と夜、光と闇、善と悪、見えるものと見えないもの、霊的視点と肉体的視点、霊と肉体・・・宇宙はすべて相対的に創られている。

人間は天秤棒であると思えば良い。
真ん中で支えている三角が魂である自分である。
そして右端に霊、左端に肉体がある。
霊も肉体もどちらも自分である。

つまり自分というのは真ん中の三角であり、右端の霊であり、左端の肉体であるわけだ。
さて、いまあなたはこの三つの自分のうち、どの自分を一番身近に感じるだろうか。

なぜこのようなことを言うかというと、自分という人間を客観的に見るためである。
おそらくほとんどの方は自分は肉体であると感じているのではないだろうか。
なぜならば肉体は目で見えるからである。

他の二つ、魂と霊は目では見えない。
しかし、なんとなく自分は魂だと思っている人も少なくはないと思う。

魂というのは、まさしく自分であるが、この地上に初めて誕生した小我である。
大我はもちろん霊である。

この初めて誕生した小我である自分は、放っておくと肉体的に生きようとする。
それにブレーキをかけるのが大我である自分である。

真ん中で天秤棒を支えている魂という自分、この自分が大事なのである。
人間には精神があるが、精神は霊の属性である魂の属性であり、肉体の属性ではない。

その証拠に、肉体が滅びた後も霊と魂と精神は滅びることなく霊界という新次元にそのまま行くことができる。
その時には、新しい次元に合った身体を身につけていることだろう。

アオムシは2次元で生きている。
このアオムシに、いくら大空の話をしてもまったく興味を示さないが、アオムシの身体が死ぬと中からチョウチョが現れて3次元の大空に飛び立っていく。
アオムシはまったく3次元の勉強をしていないために、自分が異次元に来たとは思っていない。
それは身体があるためであるが、やがてアオムシは自分が3次元にいるということを理解する時が来る。

私たちも何も学ばず何も実践しなければ、アオムシと同じ運命をたどることになる。
少なくとも天秤棒が平行になるように生きる必要があるのではないだろうか。
そのためには、自分が霊である、ということを意識することが不可欠である。
霊とは生命、イノチのことである。

私たち人間は霊だから生きているのであり、その霊が肉体を動かし、脳を使ってしゃべっているのである。
このように霊が主であり、肉体は従なのであるが、実際の生活では意識は肉主霊従となっている人が多い。

意識は魂に従属しているから、霊的な真理を学んで意識を天秤棒が平行になるようにしていく必要がある。
少なくとも新しい次元に行くまでには、霊主肉従となり、天秤棒が霊の方に傾いているくらいにしたいものである。

天秤棒が平行になるように、もっと言うと霊に重きをおくようにする事を霊性の向上という。
霊性は霊的な摂理に適った日常を送ることで向上する。

霊性は何か特別な霊能的な何かをする事では向上しない。
霊能力を向上させても霊性は向上しない。
霊性を向上させることで霊能力は自動的に向上するのであり、逆はない。
霊性を向上させなければ、霊的な視点を持つことは出来ない。
霊的な視点とは、五感の延長の霊視などのような物的な視点のことではない。

家庭や職場、あるいはご近所という日常が大切なのである。
日常の中で霊的な摂理に適った生き方をすることを自分で意識することが大事なのである。

人間が生まれてきた目的は霊性を向上させるためであり、それは死後にいく新しい住まいでの生活をより豊かに、より充実したものにするのである。
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人間とは、進化の一過程として霊が地球で過ごす期間の呼称に過ぎない

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ヴィーガンズ ランチ マイセンさんの玄米大豆ミンチを使用したハンバーグライス


人間とは、霊が地球という天体に生まれて、わずか100年ほどを過ごす、その間の霊の呼称である。
人間は霊であるが、地球に生まれて初めて個性である魂を持つ。

霊は本来完全であるが、分霊は完全性を秘めているだけで、不完全な霊である。
不完全な霊が、完全という方向に向かって一歩づつ歩を進めること、それが本来の生命の進化といわれるものである。

ダーウィンの進化論は、生命ではなく肉体という身体の進化のことを言っているのであり、生命である霊の進化のことではない。
人間にとって大切なのは肉体という身体の進化ではなく、生命である霊の進化である

魂とは その分霊が肉体という身体を着て様々な体験を経て、霊が輝きを増す、つまり霊的に進化をするために与えられた個性という分霊の一片の呼称である。
この魂のことを私たちは自分とか私と言っているのである。

地上の魂は鉄にたとえられる。
鉄は熱せられ、打たれて、強くなっていき、やがて折れない曲がらないハガネになっていく。

自分をどうするかは、一人一人の意識と意志に委ねられている。
意識と意志のことを精神という。

私たち霊は、ようやく地球という天体に人間として生まれるまでに進化してきたのである。
シルバーバーチは、霊が誕生して人間として生まれるまでの期間をいく百万年と表現している。

ところが、人間は地上に生まれた途端に、自分が霊であるということを忘れてしまう。
分霊の中の一片に過ぎない未熟な魂である自分を、完全だと勘違いし始める。

地上にはいく百万年という長い年月の過程にいる、たくさんの生き物たちが生存している。
彼らは人間と何も変わらない霊である。
違いは進化のどの過程にいるかであり霊としては同じなのに、その霊を私たちはあまりにも粗末にしていないだろうか。

人間としての進化は、肉体的→精神的→霊的と進んでいく。
21世紀に入って地球はようやく肉体的から精神的な時代に変わろうとしている。

精神的な時代とは、意識と意志が向上して肉体的な欲に負けなくなることに他ならない。
少子高齢化となるのは至極当然の結果であると言える。
私たち霊が修行する、つまり霊的向上をするために用意されている天体は無数にあり、向上の段階も無限にあるのだから何も心配をすることはない、先は長いのである。

霊は完全であるが、私たち分霊は不完全である。
この両方を意識することが大切である。

霊の完全性は、大自然を見ればわかる。
一つのタネからは違う実がなり花が咲くことは絶対にない。
地球はいく百億年という年月を同じ軌道で、同じ時間で、自転公転を繰り返している。
これらの完全性のことを自然の摂理とか霊的な摂理という。
シルバーバーチは、数学的正確さ、と表現している。

霊的な摂理は、霊に対しての摂理、決まりである。
人間は霊であるという意識が重要である。

私は霊であり、あなたも同じ霊なのである。
だから私たち霊には、霊的摂理が常に働いていて、自分の魂の表現である言動・思念という原因に対して結果が出てきているだけである。

そしてその結果が新たな原因となって、新たな結果を生む。
このように人生とは、原因と結果が連綿と続いている、その現れに過ぎない。

だから、「いま」なのである。
いまの言動・思念が未来の結果を創るからである。

魂は困難・障害・病気・悲しみなどの苦難により、打たれて、焼かれて、ようやく強いハガネになっていく。
そういう過程を経ることで、魂は琴線に触れるのである。

セコセコと小さく生きてはいけない。
魂をオープンにすることである。

あなたは「自分にはうそ、ごまかし、かくしごとはない」と言えるだろうか。
オープンとは、まずは正直になることである。
自分を含むすべての霊に対して、うそ、ごまかし、かくしごとをしないようにすることである。

これは損得ではない。
損得というのは、物質的な視点での見方である。
損得という基準を卒業して、霊的な摂理を判断の基準とするように、自分の理念・哲学を変えていくことが必要である。

宇宙は生命のために存在している。
換言すれば、宇宙は霊のために存在している。
宇宙は霊界なのである。

地球の人間と宇宙に存在する霊との違いは、肉体という身体を着ているかいないかの相違だけである。
それはそれぞれが異なる進化の過程にいるからである。

霊には霊的な摂理が細大漏らさずに常に働いている。
人間は不完全な霊であるから、完全な霊的な摂理によって霊が進化する方向に向くように常に是正されているのである。

それは困難・障害・病気・悲しみなどの苦難としてあなたの前に置かれるはずである。
シルバーバーチの霊訓で霊的な摂理を学び、それを背骨としてチャレンジすることで、必ず克服できるはずである。
克服できないものはあなたの前には置かれない、これも霊的な摂理である。

自分は不完全な霊であり、霊的な摂理という完全な法則が常に働いている、ということを意識して生きることが大切なのである。
なぜならば、試練は不意に訪れるからである。
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組織のトップと責任

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まず、「組織はトップの霊性以上にはならない」、というのが私の考え方である。

おおよそ組織のトップには欲の強い人がなるものである。
なぜならば、それは地上での生命の進化がまだそこまでしか進んでいないからに他ならない。

霊性は高くなればなるほど、向上すればするほど謙虚になるものである。
民主主義は選挙である。
謙虚な人が自ら手を挙げて選挙に立候補することはない。

さて、話を個々の人間に戻そう。

私たちは「自分という人間は一人である」と思っている。
それは魂としては一人である。

しかし実は、私たち一人一人は組織のトップなのである。
まず肉体という身体は、間違いなくあなたである。

肉体はあなたという魂が、地上で自分を表現するために与えられた地上だけのあなたという衣服である。
この衣服は39兆という細胞でつくられている。

この39兆もある細胞のうちのたった一つが反乱を起こす。
あなたのいうことを聞かずに、反旗を翻してガンという細胞になったとしよう。

さて、このたった一つの細胞が言うことを聞かず反乱を起こした責任は誰にあるのだろうか。
責任は、この組織のトップである「あなた」にある。

なぜならば、あなたという魂は、あなたという人間の全責任者だからである。
あなたはあなたという人間のトップなのである。

人間である以上、自分という組織のトップを辞することはできない、それが人間の宿命である。
それはこの地上だけではなく、死後もずっと続いていく変えることのできない摂理なのである。

一人一人の霊性を開発、向上すれば、それだけ摂理を受け入れる器が大きくなっていく。
摂理は、受容度を大きくしない限り、絶対に受け入れることができないようになっている。
それもまた摂理である。

病気は、多くの病気は、あなたの従者である肉体という身体の組織の一部が反旗を翻したからに他ならない。
それは組織のトップであるあなたが、摂理という宇宙の絶対的な法則に反旗を翻したからに他ならない。
鏡の原則である。

肉体という身体は主人ではない。肉体はあなたの従者である。
主人はあなたであり、あなたという霊であり、魂である。

組織には、理念、哲学、背骨が不可欠である。
39兆の細胞という従者は、あなたの家来である。

この家来たちを右往左往させるような生き方を日常でしていないだろうか、私たちは反省しなければならない。
この家来たちはあなたの言動だけではなく、思念からも影響を受けているということを知ることが重要である。

私たちは常に不変の理念、哲学を背骨として生きているわけではない。
残念ながらまだあっちにいったり、こっちに行ったりしながら、ヨチヨチと歩いているのである。

私たちは人間として不完全極まりない存在である、ということを自覚する必要がある。
自分は不完全な人間だと自覚できるように、霊性を向上させなければならない。

そう自覚できた人は、さらに先に進むべく、自らを啓発していくに違いない。
あなたが自分という組織のトップである、ということを自覚することは、自分という人間を客観的に見ることができたということに他ならない。

自分を客観的に、第三者的に見る目を持つことは、非常に大事である。
そのような見方こそが、地上的な、物質的な視点ではなく、霊的な生命的な視点だからである。

自分が自分という組織のトップであるという意識をもつこと。
責任はトップにある。


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